2010年12月2日木曜日

命 の決断


命についての重い話題になります。

一年前に50代の義理の姉がくも膜下出血で倒れ、脳死、心停止に至るまで二週間見守りました。
人の最期がなんと無情な出来事で、残された家族は否応なくそれを受け止めて生きて行かなければならないという現実を目の当たりにして、生きるエネルギーが私の身体から抜けて行くような気がしてなかなかそこから抜け出せない状態が続いています。

心のこもった看護をする看護師だった義姉でしたが、遅い結婚をしてからは仕事を離れ、年老いた舅、姑を自宅で立派に介護し続けたのでした。
舅が亡くなった後も姑の介護が続き、倒れたその日もデイサービス先まで姑を迎えに行く玄関先で倒れていたのでした。

救急車の搬送先の病院には脳外科が無く、再度搬送された病院で手術を受けた時にはもう手遅れでした。
術後のドクターの判断はすでに脳死を示唆したものでしたが、親族は諦めません。奇跡が起こるかもしれないと24時間交代でベッドサイドに付き、手のひらや足、腕をマッサージし続けました。
特に大学生の息子と社会人になったばかりの娘は、入浴に帰る以外は二週間病院に泊まり続けて奇跡を信じて母親を見守り続けました。母親の好きな音楽をイアホンで聴かせたり、娘は看護師さんが母親の身体を拭くのを手伝ったり、若い二人は母親の心臓が止まる直前まで周囲の人に感謝しながら笑顔を絶やさず重い空気の病室に爽やかな風を送り続けてくれました。
その二人の姿はまさに、義姉の生き様の答えを見ているような感じでした。

「脳死」というのは法律上では人の「死」を意味しています。しかし「死」という言葉が付いていても脳以外は生きているのです。血のかよった身体はもちろん温かいですし、刺激を与えると手のひらを握るそぶりをしたり足を伸ばすそぶりをしたり、条件反射ではあっても動いてくれるのです。
もしも臓器移植をするケースであれば、その心臓を止める決断を家族がくださなければならないことを意味するのです。

最近思うのですが、医学技術の進歩は時として本人または家族にとても辛い決断を強いることがあるような気がしています。

母のことですが・・・
かなり進んだアルツハイマーの私の母は股関節骨折の手術の後、すべてを拒否する状態になってしまっています。口を堅く結んだまま食べ物もまったく受け入れないのです。
今の後期高齢者医療制度の関係で輸液(点滴)による栄養補給は長期に出来ないらしく、胃瘻という方法を提示されています。
胃瘻とはお腹の外から胃の中にまで穴を開けて、そこから流動食を流し入れて命を保つ一種の延命治療です。

胃瘻にすれば母の命はまだしばらくは保たれるでしょう。しかし、意志の疎通も出来ない寝たきり状態の日々を母に与えることになるのは間違いないでしょう。

どうするか・・・・母の命の決断を私たち姉妹がしなければならないなんて、せんない事です。。。。

2 件のコメント:

  1. お姉さま、とてもがんばられた上の不運に言葉もありません。
    目の前の人の理不尽な生き死は大きなトラウマとなってしまいます。てんまりさんもそれを抱えて心晴れないことと思いますが、てんまりさんの自身の今後の問題でもあるのですよね。

    私は9月のくも膜下で入院して何事もなく退院できましたが、それ以来、何かやらなければならないことがあってこの世に戻されただけで、今後そんなに長く生きる気がしなくなりました。100まで生きたらどうしようと心配していたのがうそのようです。それは母を看取ることなのか、それとも??
    弟が若年性認知症で、弟の家族は崩壊寸前です。母もだんだん怪しい雲行きです。入院前はすべてを背負う覚悟でいましたが、今は体力的自信がなくなりました。もしかすると、そのおかげで私は今後しばらく生き延びることができるようになったのかもと思うこともあります。できることには限りがあると思い知らされました。実際、私ができなくなっても状況は今なんとか動いています。もし今度大波が来ても、私は自分の限界を超えることなく悪者になっても生き延びるすべを模索するような気がしています。何より、自分が倒れてしまったら、自分の家族を犠牲にしてしまうことがよくわかったからです。
    流動食の件は重い決断ですね。父は自分で決断できる状態だったので苦しくとも生き残る治療を自分で選びました。母はもしものときは延命はしないでと言っていますが、私も本当はそれがいいと思っていても、子供としてそれが決断できるか自信はありません。せめて残り少ないお母様との時間の中に、少しでもよかったと思える瞬間がたくさんありますように。そして、くれぐれもご自愛くださいね。 クレ

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  2. クレさん 真正面からコメントしてくださってありがとうございます。

    同じ経験をした方や、同じ境遇の体験者の方のコメントはとても参考になりますし心にズンと響きます。

    事故であれ病気であれ、一度自分の「死」の予感に直面した人は人生観が変わるものですね。私も30代でそういう経験をしました。その時に一番驚いたのが、自分がいかに生きたがっているか・・・という事実を知ったことでした。それまでは「もう死んだ方がましかも~」とか軽く言っていたのにね。

    だから 今の母の状態を見て姉たちは「母は死にたがっているのかもしれない・・」と言うのですが、私には生きたくて生きたくて抵抗しているような気がしてなりません。クレさんのお父様のお話もとても参考になりました。母の食べる意志をギリギリまで待って、最終的には延命処置をしていただく結論にたどり着きそうな気がします。
    母の延命は、同じく施設にいる父の生きる気力にも繋がりそうですし^^

    以前「小野田少尉」の講演を聴きに言ったとき小野田さんが
    「忍耐力や耐える力は筋肉と同じで鍛えなければ弱るものだ」
    とおっしゃっていました。
    若い頃には耐えられなかったような状況に居ても、今では笑いも忘れずにいる自分が居ます。
    強くなったのか、鈍感になったのか、そんな感じです(笑)

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